言語心理学におけるポライトネス理論(Politeness Theory)は、人々が対人コミュニケーションにおいて、いかにして互いの「顔」(face)を守り、円滑な関係を維持しようとするかを説明する理論です。この理論は、社会言語学者であるペネロープ・ブラウンとスティーヴン・レビンソンによって提唱されました。
「顔」(Face)の概念
この理論の核となるのは、**「顔」(face)**という概念です。「顔」とは、コミュニケーションにおいて誰もが持ちたいと願う自己イメージや公的な自尊心のことです。ポライトネス理論では、この「顔」を以下の2つに分けて考えます。
積極的顔(Positive Face): 肯定的な自己イメージを持ち、他者から承認されたいという欲求。「私は好かれたい」「私は認められたい」という気持ちに相当します。
消極的顔(Negative Face): 行動の自由を阻害されず、他者からの干渉を受けたくないという欲求。「私は私のやり方でやりたい」「強制されたくない」という気持ちに相当します。
顔を脅かす行為(Face-Threatening Acts: FTAs)
会話の中で、相手の「顔」を脅かす可能性のある行為を**顔脅威行為(FTA)**と呼びます。例えば、誰かに何かを頼むこと(「手伝ってくれませんか?」)は、相手の自由(消極的顔)を制約するFTAです。また、相手を批判すること(「それは違うと思います」)は、相手の自尊心(積極的顔)を傷つけるFTAになります。
ポライトネス理論は、人々がFTAを行う際に、その脅威を最小限に抑えるために様々なストラテジー(方略)を用いると説明します。
ポライトネスの5つのストラテジー
ポライトネス(丁寧さ)は、FTAの脅威度に応じて、以下の5つのストラテジーに分類されます。脅威が最も低い(顔を気にしない)ものから、最も高い(最大限に配慮する)ものへと並んでいます。
遠慮なく言う(Bald on Record):
相手の顔に配慮せず、最も直接的で率直な表現を用いる方法です。緊急時や、親しい関係で互いの顔を気にしない場合によく使われます。
例:「塩を取ってくれ。」
積極的ポライトネス(Positive Politeness):
相手の「積極的顔」に配慮し、相手との連帯感や親密さを示すストラテジーです。相手の好意や承認欲求に応えることで、FTAの脅威を和らげます。
例:「ねえ、親友よ、手伝ってくれない?」
例:「いつも頼りになる君に聞きたいんだけど、手伝ってもらえないかな?」
消極的ポライトネス(Negative Politeness):
相手の「消極的顔」に配慮し、相手の行動の自由を尊重するストラテジーです。へりくだった表現や、依頼を強制ではない形にすることで、相手への干渉を避けます。
例:「お手数ですが、もしよろしければ、手伝っていただけませんか?」
例:「本当に申し訳ないのですが、手伝っていただけませんか?」
オフレコ(Off Record):
FTAを直接的に言わず、婉曲的な表現や暗喩を用いて、相手に意図を推測させるストラテジーです。もし相手が意図を汲み取れなかった場合でも、責任を回避できます。
例:「あー、喉が渇いたな。」(水を要求する意図をほのめかす)
FTAを避ける(Don't Do the FTA):
最も脅威度が高いと判断した場合、顔を脅かす行為そのものを行わないという選択肢です。
文化的・社会的要因
ポライトネスのストラテジーの選択は、社会的距離(親しさ)、権力関係(上下関係)、そしてFTAの重さ(依頼内容の重大性など)といった3つの変数に影響されるとされます。これらの要因は、文化によって大きく異なり、ポライトネスの表現も文化ごとに特徴があります。例えば、集団主義的な文化(日本など)では、相手の「顔」を尊重する消極的ポライトネスがより重要視される傾向があります。
ポライトネス理論は、単に丁寧な言葉遣いを説明するだけでなく、人間関係を円滑に進めるためのコミュニケーション戦略を明らかにするものです。