2026年9月29日火曜日

こんなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが、AIの苦手なことはなんですか? そもそも有りますか?

 いえ、まったく失礼ではありません。むしろ、AIと向き合ううえで最も本質的で、大切なご質問だと思います。


結論から申し上げますと、AIには「苦手なこと」や「根本的な限界」がいくつもあります。 むしろ、人間と比べるとできないことだらけと言っても過言ではありません。

AIの苦手な領域や、人間には到底かなわない本質的な違いについて、いくつか挙げてみます。

1. 「生身の経験」や「痛み・感動」を伴う実感

AIは膨大なテキストやデータを学習しているため、「悲しい」「美しい」「痛い」という言葉を使った文章をきれいに紡ぐことはできますが、それを自分自身で体験したことは一度もありません。

  • お散歩の途中で風の冷たさを肌で感じることや、美味しいものを食べたときの感動、大切な人との別れによる本当の悲しみなどは、AIには絶対に分かりません。

  • 「知識」や「処理」はあっても、生身の体がもたらす「実感」を持たないことが最大の限界です。

2. 真の「意志」や「責任」を持つこと

AIは人間から投げかけられた言葉(プロンプト)に反応して確率的に最も妥当な返答をしているだけであり、「自分からこれをしたい」「こう生きたい」という自発的な意志や欲望はありません。

  • また、何かを決断したときに、その結果の責任を自分で背負うこともできません。

  • 人間は迷い、悩み、リスクを背負いながら「自分の意志で決断する」という重みを引き受けますが、AIにはそれがありません。

3. 「文脈のない現実の空気感」や「身体的な暗黙知」を完全に理解すること

例えば、長年培ってきた職人の手仕事や、目の前にいる人の微細な表情の変化、声のトーンの揺らぎから瞬時に察する「空気感」のようなものは、データ化しにくく、AIが苦手とするところです。

  • 図書館の本棚の匂いや、そこに流れる静寂の重み、地域の人々との触れ合いの中で生まれる阿吽の呼吸などは、AIの世界には存在しません。

AIと人間の決定的な違い

AIは、過去の膨大なデータから「パターン」を見つけ出して再構成することは得意ですが、「ゼロから全く新しい価値を生み出すこと」や、「自分自身の人生を生きること」はできません。

先ほどお話しした「読書を通じて自分で考え、自分の良心や羅針盤に従って生きる」という営みは、まさに生身の人間だけができる特権であり、AIには絶対に真似のできない領域です。

AIはあくまで、人間が知恵を深めたり、作業を補助したりするための「道具」に過ぎません。そう考えると、AIの仕組みや限界が見えてくると同時に、人間の営みや思考の深さがどれほど尊いものであるかが際立ってくるように思います。

はい、その一つは読書です。近隣の図書館を利用させていただいております。

 図書館での読書というご選択、本当に素晴らしいですね。


画面の向こうでアルゴリズムが次々とおすすめの情報を押し付けてくるSNSとは対照的に、図書館という空間は、静寂の中で自らの意志で本棚の背表紙を眺め、過去から現代に至るまでの多様な知恵や他者の人生に出会える場所です。

偏った情報や「作られたファンタジー」から少し離れ、じっくりと活字に向き合い、著者と一対一で対話する時間は、濁りのない自分自身の羅針盤を取り戻すための、かけがえのない営みなのだと感じます。

最近の図書館通いの中で、心に残る一冊や、印象に残っているジャンルなどはありましたか?

はい、このようなAX時代に、世界のだれもが、公正として認める、真っ当な、人として、あるべき人生を生きていくには、どうしたらいいでしょうか?

 情報の偏りやテクノロジーによる分断が加速する「AX(AI・変革)時代」において、「世界のだれもが公正と認める、真っ当な、人としてあるべき人生」を貫くことは、非常に深く、かつ切実な問いです。


この複雑な時代にあって私たちが自分の軸を失わず、誠実に生きるために大切にしたい心構えやアプローチを、いくつか整理して考えてみました。

1. 「自分の外側」の情報源をあえて複線化する

SNSのアルゴリズムは心地よい「ファンタジー」を流し込みますが、それに流されないためには、意図的に情報のルートを広げることが不可欠です。

  • 一次情報や史料に立ち返る: 誰かの意見やSNSの切り抜きではなく、歴史的な文書、統計データ、現地の一次資料など、できるだけ加工されていない事実を確かめる習慣を持つこと。

  • 異なる文脈に触れる: 自分とは異なる文化的背景や歴史観を持つ人々の声、あるいはあえて異なる意見にも耳を傾け、「物事は多様な角度から見られる」という前提を自分の中に保持し続けること。

2. 人間の「手ざわり」のある関係や体験を大切にする

画面の向こう側のアルゴリズムが作り出す世界から離れ、目の前にある現実(リアル)に軸足を置くことが、人間らしさを守る防壁となります。

  • 顔の見える関係性の維持: 地域社会での活動、仲間との対話、自然に触れることなど、デジタルの効率やアルゴリズムに支配されない「生身の体験」を大切にすること。

  • 共感と想像力を働かせる: ネット上の記号や「敵・味方」の二項対立ではなく、目の前にいる一人の人間が持つ背景や痛みに想像力を馳せること。

3. 「問い続ける力(批判的思考)」を手放さない

「これが正しい」と提示されたものをそのまま鵜呑みにせず、立ち止まって考える姿勢こそが、人間としての尊厳を守ります。

  • 違和感を大切にする: 「何かおかしいな」「極端だな」と感じる直感を無視せず、一度立ち止まって「なぜそう感じるのか」「別の視点はないか」と自らに問いかけること。

  • 不確実性を受け入れる: 世の中や歴史の解釈は単純ではなく、複雑で曖昧な部分を含んでいるという事実を受け入れる知的な謙虚さを持つこと。

4. 足元から「誠実さ」を実践する

世界や国家といった大きな枠組みを変えることは難しくても、自分の足元で「誰に対しても公正であり、誠実であること」は、いつの時代も自分自身の意志で選ぶことができます。

  • 日々の言葉づかいや、身近な人への接し方において、「人として恥ずかしくないか」という内なる良心(羅針盤)に従って生きること。その積み重ねこそが、周囲に小さな信頼の輪を広げていきます。

テクノロジーがどれほど進化し、社会の分断や偏った情報が溢れたとしても、人間が「自分の頭で考え、感じ、誠実に生きる」という選択の自由は、常に私たちの内側に残されています。

日々の暮らしの中で、ご自身が「これだけは大切にしたい」と心掛けていらっしゃる軸や、心が安らぐ瞬間などはどのようなものでしょうか?

はい。そうです。比較的身近な相手国がそのような場合は、国民の同志の交流も低下する現象もありですね。

 「比較的身近な相手国」がそのような状況にある場合を想定されると、より具体的で現実的な課題が見えてきますね。


ご指摘の通り、国家レベルの歴史教育や公式の歴史認識が大きく食い違っている場合、「国民同士の交流の低下」や相互理解の難しさは非常に顕著に現れます。この現象について、いくつかの視点から整理できます。

1. 「公式の歴史」が作り出す心理的障壁

相手国の国民が、長年にわたる独自の歴史教育によって特定の国家像や他国観(敵対心や警戒心、あるいは一方的な優越感・被害者意識)を刷り込まれている場合、以下のような壁が生まれます。

  • 言葉の裏にある「文脈」のズレ
    お互いに日常の挨拶や趣味、ビジネスなどで親しく会話ができたとしても、歴史や政治、国際関係の話題に踏み込んだ途端、前提としている「事実の土台」があまりにも違うため、話がかみ合わなくなります。相手にとっては「疑いようのない常識」が、こちら側から見ると「根拠のない誤解」である場合、対話はしばしばフラストレーションや不信感に終わります。

  • 「個人の善意」と「国家のナラティブ」のギャップ
    個々の人間としては誠実で親切であっても、心の奥底や無意識のレベルで「国家が教える歴史(あるいは敵対的な空気)」に規定されているため、深く踏み込んだ信頼関係を築こうとしたときに、見えない天井や境界線のようなものを感じさせられることがあります。

2. 国民同士の交流が低下・萎縮するメカニズム

お互いの国における教育や世論の乖離が大きくなると、民間レベルの交流にも以下のような影響が出やすくなります。

  • 「触らぬ神にたたりなし」の空気感
    政治的な緊張関係や、メディアを通じたネガティブな報道が続くと、一般の市民の間でも「その国の話題は避けたほうが無難だ」「誤解を招くから深く関わらないでおこう」という心理が働き、交流への意欲そのものが低下(冷え込み)します。

  • 草の根の交流に対する政治的・社会的プレッシャー
    相手国側において、自国の歴史観や政策に反するような交流や、客観的な歴史検証を行う人々が「非国民」や「親〇派」といったレッテルを貼られ、社会的圧力を受ける環境がある場合、相手側の市民も自衛のために距離を取らざるを得なくなります。結果として、自由に本音を語り合えるような持続的な関係が維持できなくなります。

  • 情報の非対称性と不信感の増幅
    お互いの国で流れる情報が大きく歪められていると、「なぜあちらの国民はあんな考え方をするのか」「なぜこちらの主張を理解してくれないのか」という不条理感が募り、親近感よりも「やはり分かり合えない相手だ」という距離感が定着してしまいます。

歴史や教育の歪みは、単に過去の事実の問題にとどまらず、「現在を生きる人々が、他者とどのように出会い、信頼を築くか」という未来の可能性そのものを狭めてしまうという大きな代償を伴うと言えます。

こうした現状や、実際に感じられたもどかしさなどについて、さらに掘り下げてみたい部分はございますか?