2025年6月22日日曜日

浄土真宗における「自利利他円満」とは

 浄土真宗における「自利利他円満(じりりたえんまん)」という言葉は、仏教の根本的な教えである「利他(りた)」、すなわち他者を利益することと、「自利(じり)」、すなわち自らが利益を得ることが、阿弥陀仏の本願(ほんがん)によって完全に満たされるという、浄土真宗ならではの深い意味合いを持っています。

一般的な仏教では、自らが修行を積んで悟りを開き(自利)、その功徳を他者に施す(利他)ことで、自他ともに救われるという考え方が基本にあります。しかし、浄土真宗では、阿弥陀仏という存在がこの「自利利他」の構造に深く関わってきます。


阿弥陀仏の本願と自利利他

浄土真宗の教えでは、私たち人間は煩悩にまみれ、自力では真の悟りを得ることができない存在であるとされます。そのような私たちを救うために、阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を称える者を必ず救い、極楽浄土へと導くという「本願」を建てられました。この本願こそが、「自利利他円満」の鍵となります。

  1. 阿弥陀仏の「利他」のはたらき:

    阿弥陀仏は、すべての衆生(生きとし生けるもの)を救うという広大な慈悲の心から、私たちに救いの手を差し伸べてくださいます。私たちが念仏を称えるのは、この阿弥陀仏の「他力(たりき)」による救いを信じ、受け入れる行為です。阿弥陀仏が私たちを救済しようとするこの働きこそが、阿弥陀仏自身の「利他」のはたらきであり、阿弥陀仏の「本願」の目的です。

  2. 私たちの「自利」と「利他」の円満:

    私たちは、この阿弥陀仏の他力によって救われ、真実の信心を得て、極楽浄土への往生が定まります。これが私たちにとっての「自利」です。

    しかし、浄土真宗では、この「自利」がそのまま「利他」へと繋がると考えます。なぜなら、阿弥陀仏の本願によって救われた者は、阿弥陀仏と同じように他者を慈しみ、救いたいという心が自然と湧き上がってくるからです。

    • 真の救いに感謝し、他者への慈悲が生まれる: 阿弥陀仏から与えられた広大な慈悲と救いを深く知ることで、私たちは感謝の念に満たされます。この感謝の心が、自己中心的な考えから離れ、他者の苦しみに寄り添い、他者を利益したいという「利他」の行動へと向かわせる原動力となります。
    • 計らわない利他行: ここでの「利他行」は、自らの功績や善行によって見返りを求めるものではありません。阿弥陀仏によってすでに救われているという安心感から、見返りを求めず、ただ純粋に他者の幸せを願う「計らわない利他行」が自然に実践されるようになります。

まとめ

したがって、浄土真宗における「自利利他円満」とは、

  • 私たちの「自力」による修行や善行によって自利と利他を達成するのではなく、
  • 阿弥陀仏の広大な「他力」による救い(本願)を受け入れることによって、
  • 自らが真の安心を得る「自利」が達成され、その結果として、
  • 自然と他者を慈しみ、利益しようとする「利他」の心が円満に具わる状態

を指します。

これは、阿弥陀仏の慈悲が私たち一人ひとりに深く届き、その恩に報いるかのように、私たち自身の内側から自然と利他の心が湧き上がってくるという、浄土真宗の教えの根幹をなす考え方です。私たちは、自分の力で「自利」と「利他」を両立させようと苦しむのではなく、阿弥陀仏に身を委ねることで、結果として両方が満たされるという、深い安心と喜びの境地を表していると言えるでしょう。

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