2025年6月14日土曜日

鉄道技師 また新幹線の父と言われている島秀雄について 詳しく解説してください。

 島秀雄は、日本の鉄道技術史において数々の画期的な功績を残し、特に「新幹線の父」としてその名を轟かせた、まさに稀代の鉄道技術者です。彼の生涯と功績について詳しく解説します。

島秀雄の生い立ちと初期のキャリア

島秀雄は1901年(明治34年)、鉄道技術者である父・島安次郎の次男として大阪に生まれました。父・安次郎もまた、日本の鉄道の黎明期を支えた重要な人物であり、その影響を強く受けて秀雄も鉄道の道に進みます。

1925年(大正14年)に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後、鉄道省(後の日本国有鉄道、国鉄)に入省します。彼はすぐに頭角を現し、特に蒸気機関車の設計において多大な才能を発揮しました。

  • D51形蒸気機関車「デゴイチ」の設計:
    • 貨物用蒸気機関車の傑作として知られるD51形の主任設計者として、その誕生に深く関わりました。D51形は、戦中から戦後にかけて日本の鉄道輸送を支える大動脈となり、その信頼性と性能は高く評価されました。
  • C57形「貴婦人」などの旅客用蒸気機関車:
    • D51形以外にも、C57形をはじめとする多くの蒸気機関車の設計に携わり、日本の鉄道の近代化に貢献しました。

「弾丸列車計画」と新幹線への道

太平洋戦争が激化する前の1939年(昭和14年)、東京と下関を9時間で結ぶ「弾丸列車計画」が浮上します。これは、現在の新幹線のルーツとも言える広軌(標準軌)での新幹線建設構想であり、島秀雄もその設計担当者として招集されました。この計画では、電気動力による高速運行が検討されましたが、戦争の激化により計画は頓挫します。しかし、この時の研究や一部のトンネル建設(後に新幹線に転用された日本坂トンネルなど)は、後の東海道新幹線に大きな影響を与えました。

戦後の活躍と湘南電車の開発

終戦後、日本の鉄道は疲弊していましたが、島の技術者としての情熱は衰えませんでした。

  • 80系電車「湘南電車」の開発:
    • 1949年(昭和24年)に開発された80系電車は、それまでの短い編成の電車とは異なり、長距離運行に対応した本格的な長大編成の電車でした。この「湘南電車」の成功は、将来の高速電車運行、ひいては新幹線への道を拓く上で重要なステップとなりました。電車が長距離運行を担えることを実証した画期的な車両でした。

しかし、1951年(昭和26年)の桜木町事故をきっかけに、当時の国鉄総裁と共に辞任し、一時民間の住友金属工業に移籍します。

新幹線の父としての偉業

1955年(昭和30年)、十河信二が国鉄総裁に就任すると、新幹線建設への強い意志を持っていた十河は、技術部門の全権を任せる技師長として島秀雄を国鉄に呼び戻します。ここから、日本の歴史を塗り替える東海道新幹線プロジェクトが本格的に始動します。

島秀雄は、技術的な最高責任者として、新幹線の構想から実現までを強力に推進しました。彼の功績は多岐にわたります。

  • 全電気動力方式の採用(分散動力方式「オールM方式」):
    • 従来の機関車牽引方式ではなく、すべての車両にモーターを搭載する「分散動力方式(オールM方式)」を推進しました。これにより、加速・減速性能が向上し、高速運行時の安定性も高まりました。これは島自身が「ムカデ式」と呼んだ、画期的な発想でした。
  • 車内信号方式と自動列車制御装置(ATC)の導入:
    • 高速運行時の安全性を確保するため、運転士が信号を目視で確認する従来の方式から、運転台に設置されたモニターで信号を確認し、速度超過を防ぐATCシステムを導入しました。これにより、高速鉄道における安全運行の基盤が築かれました。
  • 新幹線の規格決定と総合システム構築:
    • 高速走行に耐えうる広軌の線路、踏切のない全線高架・高架橋、そして車両、電気、信号、通信、保守といったあらゆる技術要素を統合した「システムとしての鉄道」を構築することに尽力しました。これは、単に車両を速くするだけでなく、インフラ全体を高速鉄道に最適化するという、当時としては先進的なアプローチでした。
  • 「0系新幹線」の設計:
    • 新幹線の初代車両である「0系」のデザインと性能の基礎を築きました。丸みを帯びた特徴的な「団子鼻」のフォルムは、高速走行時の空気抵抗を考慮したものであり、その後の新幹線のデザインにも大きな影響を与えました。

安全第一の哲学

島秀雄は、技術者として「安全」を最優先する姿勢を貫きました。彼は、いくら速くても安全でなければ意味がないと考え、設計のあらゆる段階で安全性を徹底的に追求しました。そのため、部下からは「慎重居士」と呼ばれるほど、石橋を叩いて渡るような堅実な開発姿勢であったと伝えられています。この「安全第一」の哲学が、新幹線が今日まで一度も死亡事故を起こしていないという驚異的な安全性を支える基盤となっています。

国鉄退職後の活躍と晩年

1963年(昭和38年)、新幹線建設の予算問題で十河総裁が辞任すると、島秀雄もこれに殉じる形で国鉄を退職します。翌1964年(昭和39年)10月1日、東海道新幹線は華々しく開業しましたが、十河と島は出発式に招待されなかったというエピソードは有名です。しかし、島は自宅のテレビでその様子を見守り、ひかり一番列車が通り過ぎるのを窓越しに静かに見送ったと伝えられています。

国鉄退職後も、彼は日本の科学技術の発展に貢献しました。

  • 宇宙開発事業団(NASDA、現JAXA)初代理事長:
    • 1969年(昭和44年)には、宇宙開発事業団の初代理事長に就任し、日本のロケット開発をリードしました。鉄道技術で培ったシステム工学的な発想は、宇宙開発の分野でも大いに活かされました。

島秀雄は1998年(平成10年)に96歳で亡くなりましたが、その生涯は日本の近代技術史、特に鉄道の発展に深く貢献したものでした。彼の功績は、新幹線の成功という形で今もなお世界に誇る日本の技術の象徴として輝き続けています。

島家三代の鉄道への貢献

余談ですが、島家は三代にわたって日本の高速鉄道技術に貢献しています。

  • 祖父・島安次郎: 明治・大正期の鉄道技術者で、「弾丸列車計画」にも関与。
  • 父・島秀雄: 新幹線の開発を主導し、「新幹線の父」と呼ばれる。
  • 息子・島隆: 新幹線0系の設計に参画し、台湾高速鉄道の顧問も務める。

このように、島秀雄は単なる技術者にとどまらず、日本の社会と技術の発展に大きな足跡を残した偉大な人物です。

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