イグ・ノーベル賞(Ig Nobel Prize)は、「人々を笑わせ、そして考えさせる」ような、ユニークで独創的な研究や業績に贈られる国際的な賞です。ノーベル賞のパロディとして知られていますが、その根底には科学への深い敬意と、好奇心や探求心を刺激するという真面目な目的があります。
イグ・ノーベル賞の起源
イグ・ノーベル賞は、アメリカの科学ユーモア雑誌「風変わりな科学雑誌(Annals of Improbable Research)」の編集長であるマーク・エイブラハムズによって1991年に創設されました。彼は、世界中の「面白く、奇妙で、そして深く考えさせられる」研究や業績に光を当てることを目的として、この賞を立ち上げました。
「イグ・ノーベル」という名称は、ノーベル賞(Nobel Prize)に否定の接頭語「Ig-」(~でない、~ではない)を組み合わせたもので、「ignoble(下劣な、恥ずべき)」という単語にも掛けていると言われています。しかし、これは決して受賞者を侮辱するものではなく、むしろ「一見くだらないと思われる研究の中にも、科学の本質や新たな発見のきっかけが潜んでいる」というメッセージが込められています。
毎年9月、ノーベル賞の発表に先立って、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)などで授賞式が開催されます。この授賞式は、紙飛行機が飛び交い、ノーベル賞受賞者がスピーチを途中で止めたりする、非常にユーモラスな雰囲気で知られています。
対象となる研究・業績
イグ・ノーベル賞の選考基準は「人々を笑わせ、そして考えさせる(first make people laugh, and then make them think)」研究や業績です。ノーベル賞と同様に、物理学、化学、医学(または生理学)、経済学、平和、文学などの部門があり、これに加えて音響学、昆虫学、動力学、栄養学など、年によって様々なユニークな部門が設定されます。
対象となるのは、以下のような特徴を持つ研究です。
- 独創性と奇抜さ: 他に類を見ない発想や、誰もが考えもしなかったような視点からの研究。
- ユーモラスな側面: 聞いた瞬間に思わず笑ってしまうような、面白みのある研究。
- 科学的な真面目さ: 一見すると奇妙に見えても、その根底には真摯な科学的な探求や考察があること。
- 新たな視点や発見の可能性: 笑いの奥に、科学的な示唆や、将来的に大きな発見につながる可能性を秘めていること。
受賞研究の具体例としては、以下のようなものがあります。
- 足の臭いの原因となる化学物質の特定(1992年医学賞)
- ハトを訓練してピカソとモネの絵を区別させることに成功した研究(1995年心理学賞)
- 犬語翻訳機「バウリンガル」の開発(2002年平和賞)
- ヘリウムガスでワニのうなり声も高くなることを発見した研究(2020年音響学賞)
- 通電した箸やストローが食べ物の味をどのように変えるかを実験で評価した研究(2023年栄養学賞)
- 哺乳類が肛門を通じて呼吸できることを発見した研究(2024年生理学賞)
イグ・ノーベル賞の特徴
- 「笑い」と「思考」の両立: 単なるお笑いではなく、笑いの中に科学的な疑問や新たな視点を発見させることを目的としています。これにより、科学へのハードルを下げ、一般の人々の科学への関心を高める役割を果たしています。
- ノーベル賞受賞者による授与: 授賞式では、実際のノーベル賞受賞者がプレゼンターを務めることが多く、これもイグ・ノーベル賞が科学界から一定の評価を得ている証拠と言えます。
- 自費参加: 受賞者は、授賞式への参加費用や旅費を自費でまかなうのが慣例です。賞金も通常は出ません(過去に10兆ジンバブエドル札が贈られたことがあるが、これは実質的に無価値)。
- 研究の意外な価値: 一見、奇妙な研究に見えても、後に科学的な応用や重要な発見につながるケースも少なくありません。例えば、犬語翻訳機「バウリンガル」は、動物の感情認識技術の発展に貢献する可能性を秘めていましたし、「歩きスマホ」の危険性を実証した研究は、現代社会における重要な問題を浮き彫りにしました。
日本人との関係
日本はイグ・ノーベル賞の「常連国」として世界的に知られています。アメリカを除くと、人口あたりの受賞者がイギリスと並んで最も多い国の一つです。2007年以降、18年連続で日本人研究者らが受賞しており、多くのユニークな研究が世界に紹介されてきました。
日本人の受賞が多い理由について、創設者のマーク・エイブラハムズは、「世界の大半の国では、変わった行動をすることは悪いことと思われます。そういう評判がついてしまうと、罰せられることだってあります。しかし、日本とイギリスは伝統的に違う」と述べています。これは、日本文化において、一見奇抜なアイデアや探求心に対し、寛容な風土があることを示唆しているのかもしれません。また、日本の研究者の探求心やユーモアのセンスの高さも貢献していると考えられます。
主な日本人受賞者の例(一部):
- 1992年 医学賞: 神田不二宏ら(資生堂研究員) - 足の臭いの原因となる化学物質を特定。
- 1995年 心理学賞: 渡辺茂ら(慶応大学教授) - ハトを訓練してピカソとモネの絵を区別させることに成功。
- 1996年 生物多様性賞: 岡村長之助(岡村化石研究所) - 岩手県の岩石から1000種類以上に及ぶ「ミニ種」の化石を発見。
- 1997年 経済学賞: 横井昭裕(ウィズ)、真板亜紀(バンダイ) - 「たまごっち」により、数百万人分の労働時間を仮想ペットの飼育に費やさせた功績。
- 2002年 平和賞: 佐藤慶太(タカラ)、鈴木松美(日本音響研究所)、小暮規夫(獣医師) - 犬語翻訳機「バウリンガル」を開発。
- 2005年 栄養学賞: ドクター中松(発明家) - 毎日34年間、食事を写真に撮り続けた功績。
- 2007年 化学賞: 山本麻由(国立国際医療センター研究所) - 牛糞からバニラの香りを抽出する方法を開発。
- 2012年 音響賞: 栗原一貴、塚田浩二 - おしゃべりを続ける人を邪魔する装置「スピーチ・ジャマー」開発。
- 2014年 物理学賞: 浜村崇、中村綾乃、米山雅人 - バナナの皮はどれくらい滑りやすいか、摩擦係数を測定。
- 2017年 生物学賞: 吉澤和徳、上村佳孝 - ブラジルに生息する昆虫の雌に、雄のような形状の性器があることを発見。
- 2021年 動力学賞: 村上久、西成活裕、西山雄大 - 「歩きスマホ」の危険性を実証。
- 2023年 栄養学賞: 宮下芳明、中村裕美 - 電気を通した箸やストローで飲食物の味を変えることを提案。
- 2024年 生理学賞: 武部貴則ら(東京医科歯科大学栄誉教授) - 多くの哺乳類は肛門で呼吸ができることを解明した功績。
イグ・ノーベル賞は、科学の面白さや奥深さを一般の人々に伝え、知的好奇心を刺激する上で大きな役割を果たしています。そして、真面目に研究に取り組むことの重要性や、意外な発見の喜びを再認識させてくれる、特別な賞と言えるでしょう。
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