豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出した理由の一つとして、「キリスト教宣教師が日本を植民地化しようとしている」という情報を、地域の住民からの報告を通じて秀吉が知った、という説は確かに存在します。これは、秀吉がキリスト教に対する認識を改めたきっかけの一つとして、歴史学で議論される要因です。
住民からの報告と植民地化への警戒
この説の背景には、以下のような状況が考えられます。
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長崎の教会領化:
イエズス会は、大村純忠(キリシタン大名)からの寄進により、長崎とその周辺地域を実質的な教会領としていました。長崎は教会によって要塞化され、ポルトガルとの貿易の拠点として繁栄していましたが、これは日本の主権が及ばない治外法権的な地域として、秀吉には映りました。地域の住民の中には、この状況を不安に感じ、秀吉に報告した者もいたかもしれません。
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日本人奴隷貿易の存在:
ポルトガル商人の中には、日本人を奴隷として東南アジアやポルトガル本国に売買する行為を行う者がいました。宣教師自身が直接的にこの貿易に関与していたわけではないとされますが、貿易船に乗る商人たちと宣教師は同じ船で来日し、協力関係にあったため、宣教師もその存在を知っていた可能性が高いです。この奴隷貿易は、多くの日本人にとって憤りの対象であり、その情報が秀吉の耳に入ったことは、キリスト教や西洋人への不信感を募らせる大きな要因となりました。ルイス・フロイスの『日本史』にも、秀吉が日本人奴隷の売買について憤慨したという記述が見られます。地域の住民や、捕らえられた人々の親族などから、直接、秀吉やその家臣に訴えがあった可能性は十分に考えられます。
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キリシタン大名の動向:
キリシタン大名の中には、熱心な信仰から領内の寺社を破壊したり、領民に強制的に改宗を迫ったりする者もいました。また、キリシタン大名同士の連携や、宣教師への深い帰依は、天下統一を目指す秀吉にとって、新たな勢力として脅威に感じられました。こうした動きも、住民からの報告を通じて秀吉に伝わった可能性があります。
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スペイン船との遭遇:
秀吉は九州征伐の最中、九州に滞在していた時にスペイン船の乗組員から、スペインがフィリピンを植民地化した際の様子(まず宣教師を送り込み、その後軍隊を派遣して支配を確立するという手法)を聞かされたという説もあります。これが、キリスト教布教と植民地化の関連性を秀吉に強く認識させた一因になったとも言われています。
秀吉の判断
これらの情報や状況は、秀吉が天下統一をほぼ達成し、日本全体の支配体制を確立しようとしていた時期と重なります。秀吉にとって、キリスト教が従来の日本の秩序(神道や仏教)を乱し、ひいては日本の統一を脅かす可能性を孕んでいると判断したことは十分に考えられます。
したがって、住民からの報告が、秀吉がキリスト教(バテレン)を危険視し、追放令を発するに至った重要な要因の一つであったという説は、歴史学的に妥当性を持つものとされています。ただし、これだけで全ての理由を説明できるわけではなく、上記に挙げた様々な要因が複合的に作用した結果、バテレン追放令が発令されたと理解するのが適切です。
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