2026年9月6日日曜日

三重県内における「郡」と所属する町、そして「1つの郡に1つの町だけが残る」という現象について

 三重県内における「郡」と所属する町、そして「1つの郡に1つの町だけが残る」という現象について、歴史的な背景や現在の状況を含めて解説します。


1. 三重県内の「郡」と所属する町村・人口の現状

現在、三重県内には7つの郡があり、すべて「町」のみで構成されています(村は現在、県内に存在しません)。各郡の所属町村と推計人口(おおよその規模)は以下の通りです。

郡名所属する町村人口の目安(または主な自治体)
員弁郡(いなべぐん)東員町のみ約2.5万人(いなべ市は市制施行で独立)
三重郡(みえぐん)菰野町、川越町、朝日町3町合わせて約7万人強
桑名郡(くわなぐん)木曽岬町のみ約6千人強
多気郡(たきぐん)多気町、明和町、大台町3町合わせて約3.5万人〜4万人
度会郡(わたらいぐん)玉城町、度会町、大紀町、南伊勢町4町合わせて約3.5万人弱
北牟婁郡(きたむろぐん)紀北町のみ約1.4万人
南牟婁郡(みなみむろぐん)御浜町、紀宝町2町合わせて約1.5万人

2. なぜ「1郡1町」のような状態が生まれたのか?(歴史的背景)

「郡」という区画は、もともと古代の律令制(大宝律令など)に由来する行政区画ですが、現在の「〇〇郡」という枠組みの多くは、明治時代(1878年)の「郡区町村編制法」によって整えられたものです。当時は実質的な行政単位として機能していました。

その後、昭和の大合併や平成の大合併を経て、次のような歴史的経緯から「郡名はあるが、中身が1町だけ」という現在のいびつな(あるいはコンパクトな)構造が生まれました。

  • 平成の大合併(2000年前後)のうねり:
    国が市町村合併を強く推進した結果、多くの町村が合併して「市」へと昇格しました。

  • 東員町のケース(員弁郡):
    もともと員弁郡には北勢町、員弁町、大安町、藤原町、東員町の5町がありました。2000年前後の合併協議の際、当初は5町での合併が検討されましたが、最終的に東員町は住民投票や議会の議論などを経て合併協議から離脱しました。そのため、他の4町が合併して「いなべ市」になり,取り残される形で「員弁郡=東員町のみ」という形になりました。

  • 木曽岬町のケース(桑名郡)や紀北町のケース(北牟婁郡):
    これらも周辺の町村との合併や、隣接する市(桑名市や尾鷲市など)との編入合併の過程で周囲が「市」になり、結果として1郡1町が残る形となりました。

3. この現状をどう捉えているか? 動向はあるのか?

行政上および住民の意識において、この「1郡1町(郡に所属している意識の希薄化)」の現状は以下のように捉えられています。

① 実質的な行政上の意味はほぼ失われている

現在、日本における「郡」に独自の行政権や自治権はありません。住所表記として「員弁郡東員町」のように残ってはいますが、住民票や税務、インフラ管理などはすべて「東員町」という単一の自治体(市町村)が行っています。そのため、日常生活において「郡」の枠組みを意識することはほとんどありません。

② 「合併しなかったこと」による独自の発展と誇り

東員町が平成の大合併で周辺4町と一緒にならず、単独の町として残ったことについては、当時から「独自の財政基盤やコンパクトな行政サービスを維持できる」「地域の独自性を守れる」という前向きな捉え方がされてきました。
実際、名古屋圏へのアクセスの良さや工業団地の開発なども手伝い、周辺の自治体が人口減少に悩む中、東員町は比較的安定した人口と活気を維持しています。

③ 今後の動きや再編の可能性

「郡」という単位を復活させたり、1郡1町の自治体を周囲の市に無理やり編入させたりするような行政的な再編の動きは、現在ほとんどありません
むしろ、人口減少時代に入り、市町村合併の機運は下火になっています。今後は合併による「箱の拡大」よりも、隣接する市(いなべ市や桑名市、四日市市など)との間で、図書館の相互利用やゴミ処理、広域行政といった「部分的な連携・協力(コンパクトシティや連携中枢都市圏構想)」を進める実利的な動きが主流になっています。